紀伊半島の環境保と地域持続性ネットワーク 紀伊・環境保全&持続性研究所
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紀伊半島地域における地震などの様々なリスクを考える

明応地震による伊勢湾沿岸の津波による被害

 紀伊半島の東側に位置する伊勢湾は、伊良湖水道で外海に通じる閉鎖的海域であり、太平洋に面した地域と比べて、海溝型地震に伴う大津波からは、比較的安全と思われるかもしれません。

 しかし、過去に海溝型地震に伴う大津波により大きな被害が出ているので油断禁物です。約5百年前の明応地震(1498年;明応7年)に伴う津波では、甚大な被害を受けました。

 1498年という時代は、戦国時代の初期であり(応仁の乱;1467年、明応の政変;1493年)、伊勢の国では、南勢地域を支配する北畠氏、中勢地域を支配する長野氏、亀山・鈴鹿地域を支配する関氏、北勢には多くの地方豪族が割拠する状況でした。1449年には北条早雲が小田原城を奪取しています。ちなみに、北条早雲は伊勢平氏の末裔とされる関氏と同族であるという説が有力です。

現在の三重県津市にあった「安濃津」の港については、室町時代末期に成立した日本最古の海洋法規集である『廻船式目』で、日本の十大港湾として記されている三津・七湊の港湾都市の中に挙げられています。三津とは、安濃津、博多津、堺津です。また、中国明代の歴史書『武備志』には、日本三津三箇の津(さんがのつ)として安濃津、博多津、防津(現在の鹿児島県南さつま市)が記されています。このように、既に、室町時代に安濃津は繁栄した港街として内外に知られており、数千戸が軒を連ねていたとされています。

 しかし、明応地震に伴う大津波が安濃津の港街を襲い、これを壊滅させ、街の繁栄は一瞬の間に消滅してしまいました。その有様は、今回の東日本大震災に襲われた宮城県沿岸地域のような有様であったと推察されます。

 当時、津市の岩田川は海岸にそって南行し、海側には海岸砂丘があり、河口から入ったところに天然の防波堤のある波静かな安濃津の港があったとされています。しかし、明応地震にともなう大津波が平野部を襲い、岩田川をさかのぼり、津波が引き返す力によって海岸砂丘が破壊され、その結果、岩田川が現在のように海に直角に注ぐように流路が変わったと推察されています。

明応地震は、東海・東南・南海の3連動地震とされ(推定マグニチュード8.6)、地震に伴う大津波は、各地で大きな被害を発生させました。@神奈川県では由比ヶ浜から鎌倉の大仏殿にまで押し寄せてこれを破壊し、A静岡県沼津市の沿岸では36mの高さにまで達し、A静岡県浜松市・湖西市では、それまで砂丘によって遮られていた場所が津波によって破壊された結果、低湿地であった内陸部に広大な浜名湖が出現し、B静岡県の駿河湾一帯で万6千人を水死させ、B伊勢湾内では安濃津の港街を壊滅させ、C伊勢市の大湊では波の高さが8〜10mに達して「倒壊家屋1000軒、水死者5000余人」(大湊由来記)の被害を出し、D鳥羽市の国崎では津波高が15mに達し、伊勢志摩地域だけで1万人を超える死者を出し、E熊野灘でも8mを超える高さに達して多くの人命を奪い、F和歌山県でも海岸砂丘を突き破り、紀ノ川の流路を流れを変えるほど激しく襲い、和歌の浦にあった橋本港を壊滅させ、F四国においても、津波考古学的研究で明応地震の痕跡があちこちで発掘され、愛媛県新居浜市の黒島では津波が島の6〜7割を破壊し、神社も破壊し、住民を四散させたと記録されています。

 明応地震から28年後に安濃津を通り過ぎた連歌師の宗長は、「此の津、十余年以来荒野となりて、四、五千軒の家、堂塔のみ」(宗長手記)と記しています。

<筆者意訳>繁栄していた安濃津の港街は、明応地震の大津波によって壊滅し、10余年を超える年月を経た今も荒野のままであり、4〜5千軒もあった人家の影はなく、ただ寺の堂塔だけがぽつんとあるだけだ。

このように明応地震とその津波は、関東から四国にかけての各地に大きな被害をもたらしました。伊勢湾沿岸の平野部にも津波が襲い、繁栄していた安濃津の街が破壊されましたが、津波が内陸のどこにまで達し、どの高さにまで達したのかは必ずしも明確ではありません。できれば、津波の到達が想定された地域で、ボーリング調査などを行って、今後、発生が予測される3連動地震に伴う大津波への備えの参考にするとともに、住民への安全意識を高める情報とすべきでしょう。新聞報道によれば隣の愛知県では歴史的な地震と津波の発生状況を明らかにするための地層調査を行うとのことです。(以上、2011年8月21日記)

コラム 

 明応地震に関係して、上記の各地の被害@で「鎌倉の大仏殿にまで津波が押し寄せてこれを破壊した」と書きましたが、平成24年8月21日の朝日新聞の記事によりますと、明応地震の3年前(明応4年)に相模トラフ(伊豆半島の伊東市の北側付近から相模湾・太平洋を南東方向に走る)起源の大地震が相模湾内で発生した可能性があるということです。1498年(明応7年)の明応地震は、南海トラフに沿って、駿河湾以西で起こっていますので、明応地震による津波が、伊豆半島の反対側にある鎌倉を8mの高さで襲うということは考えにくく、明応4年に関東で大地震があったので、この時の津波と混同された可能性があるとのことです。記録的には、明応4年の大地震について古文書(鎌倉大日記)に書かれているようです。
 ところで、1703年には相模トラフ起源の巨大地震である元禄関東地震が起こりましたが、その4年後の1707年には南海トラフによる宝永地震が起こり、この時は富士山が噴火しました。相模トラフを起源とする関東の大地震の3〜4年後に、南海トラフを起源とする大地震が起こったという歴史的事実には、注意が必要と思われます。東京直下地震が近いうちに発生するという予測がある中で、これが南海トラフ地震の引き金となるという可能性を否定できないと思われるからです。(この項、平成24年8月21日に記載)


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